取捨選択と最後の審判
未来を切り開くのは、他人じゃあない。
覚悟を持って一歩を踏み出した自分自身だ。
言い訳を考えている暇があるのなら、兎にも角にも行動あるのみだと思う。
ただし、なんとなく決めた行動ではなく覚悟と誇りを持った行動というのがひとつの鍵になってくると思う。
僕は「二兎追うものは一兎をも得ず」ということわざが大嫌いで、
そんなもん知るか。二兎くらい狩ってやるよという気持ちで生きてきた。
もちろん、上手くいくこともあれば、上手くいかないこともあったし、なんとなくうまい具合いに生きてこれたけれど、勝負どころではいつもあやふやな結結果が多かった。
そのことわざと同じくして僕は天秤が嫌いだった。ただの優柔不断と言われたらそれまでだけど、何かと何かを比べるということが根本的に嫌いっていうのが理由の一つで、あと捨てるということが根っから苦手な人間なんだと思うの。
そんな天秤が大嫌いな自分なのに、数年前フェルメール(Vermeer)の天秤を持つ少女のジクレー絵画を購入した。当時じゃ結構な値段だったし今まで絵なんて買ったこともなかったのに、気がついたらワンクリックで所有権を握っていた。きっと言葉では説明できないような美しさに魅了されたからと、天秤に反抗的な思いがなぜか購入を助長したんだと思う。
その絵は美しい少女が天秤を持っていて、その背後には最後の審判の絵が飾られている絵だ。
今思うと、最後の審判が自分に宣告をしに来たんだろうななんて考えた。
きっと買ったことにも意味がある。
全ては意味を持って世界を回しているってのが僕の持論。
変な自信と、嫌いということを理由に 取捨選択を見て見ぬふりをして数年走ってきたけど、最後の審判は結局訪れて僕は大切な想いと思いを選択しなければならなかった。
正解・不正解なんて優しいものがそこにはないから、自分が選んだその考えが正解かなんてきっと何時まで経っても分からないだろう。
だけど、どちらを選んだにせよ、後悔はずっと付き纏うことを知っていたから覚悟を心に決めなければなかった。
とても痛かった。
まだまだ和らぎそうにないし、その選択を胸に抱えて僕は生きて行かなければならないんだ。
けれど、またひとつ大人になれたきっかけでもあって、それを選んだ自分に誇りと覚悟を掲げてこの生きている世界を堂々と胸を張って生きていかなくちゃいけないんだと、思うようになった。
けれど、最後にはっきり言うけど、取捨選択?そんなもんだいっきらいだ。
今でも大っ嫌い。だからいつか、そんな取捨選択をしなくてもよいような男になりたい。
全部受け止めて愛せたら一番だろ?
いつか全てが上手くハマッて、
手に届く範囲の人くらいは皆幸せで、笑えるそんな世界になりますように。
そして、その選択が間違いじゃなかったんだって思う日が訪れることを信じて歩いて行きたい。作られた絆はそう簡単に消えるもんじゃないと信じて。
さあ、僕らの時間だ。the Loser 進み出します。
瞬きしないで、見ていてください。
今年、全て変わるから。そこの君も巻き込んでやる。
楽しみにしていて。